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シカゴにあるウォルトの生家
「アメリカ編①」の続きです。
シカゴ市の「1249 North Tripp Avenue」の一軒家を父のイライアスは自分で建てます。
そこで家族5人暮らしをしていました。
1901年12月6日 四男ウォルトが自宅の2階で誕生。
1903年12月6日 長女ルース・フローラ・ディズニー誕生。
家族が増え7人家族になります。
1909年に家の住所は「2156 North Trip Avenue」に変わりました。
シカゴ市内の角地に今でも建つウォルトの生家👇
赤丸がウォルトの生家で、黄色い丸が聖パウロ会衆派教会👇
もう少し広範囲にシカゴの地図で見てみましょう。空港から東南16㎞に生家と教会があります。
青丸がシカゴ・オヘア空港、赤丸が生家と教会👇
歴史的建造物の指定へ向けて
ここの家には1893年から家族で住み始め13年の間イライアスの所有物でした。
ウォルトは、0歳からの約4年半の幼児生活をシカゴで送りました。
しかし、両親はシカゴが都会になり、増え続ける犯罪を憂慮し、子育てしやすい場所へ引っ越しを考えます。
1906年2月にウォルター・チェンバレン氏へ家を売却することに。
その後も改装・改築されたりしながら、売却され続けます。
1991年、シカゴ市の建設開発局は、世界的な人物の生家を歴史的建造物に指定しようと市議会に相談しました。
まず、歴史的建造物の基準を満たすには、1893年の新築のときの外観とかけ離れていてはダメとの決まりがあります。
様々な人に売却されているうちに、外壁がアルミサイディングの外壁材に変えられ、正面のポーチも変えられていました。
しかも、その当時の所有者であったジェーンさんが、
「勝手に指定されては、今後一切の改装ができないので困る。さらに、今後売却を考えたときに、新しい所有者が改築できないと知ったら売却できないかもしれないじゃない!」(ざっくり日本語訳)
と、指定に反対の意思を表明したのです。
所有者の同意なしに指定することはできません。
その結果、決議は却下されます。
歴史的建造物の指定がないとなると、ウォルトの生家は、今後誰かの手に渡ったときに取り壊される可能性も出てきました。
やっと歴史的建造物の指定へ
結局、ウォルトの生家は、ジェーンさんから売却されました。
2013年に19万ドルで、ダイナ・ベナドンさんとブレント・ヤングさんが購入。
新しい所有者の2人は、寄付金を募りながら現在もこの生家を永遠に保護するためにシカゴ市と協力されています。
限定品のTシャツなどが定期的に販売されていて、家の修復費や維持費などに当てられています。
ツイッターに詳細が載っています。
シカゴへ訪れた際はウォルトの生家とウォルトが洗礼を受けた教会へ立ち寄ってみるのもいいですね。
シカゴシティの旗のリュックサック👇
思い出のミズーリ州マーセリンへ
1906年4月 カンザス州マーセリンへ家族で引っ越します。
ここは、イライアスの弟ロバート家族が農場を所有していました。
南北戦争時の軍人だったウイリアムさん名義の土地、40エーカーと中古の家を購入します。
その後、さらに5エーカーの土地も購入しました。
ウイリアムさんの農場にはリンゴ・桃・プラムの木や畑があり、豚・鶏・馬がいたので生活の基盤がすぐに作れました。
1908年、長男で20歳のハーバードと、次男で18歳のレイモンドはマーセリンでの田舎暮らしが気に入らず、都会のシカゴで生活します。そこでショップ店員の仕事を見つけました。
家族全員が揃って暮らしたのは、ここ、マーセリンが最後だったのですね。
その後、イライアスが病気にかかり、農場を続けていけなくなります。
仕方なく1910年11月に農場の売却をしました。
多大なる影響を与えたマーセリンでの暮らし
マーセリンのウォルト・ディズニー・ホームタウン・ミュージアム👇
結局、ウォルトは5歳から8歳11ヶ月の約4年弱しかマーセリンで暮らせませんでしたが、
幼少期の多感な時期に自然の中で過ごし、動物とふれ合ったことが、その後の人生において大きな影響を与えることになりました。
また、この頃から絵を描くことが好きで色々なものをスケッチしていたそうです。
近所のお医者さんのシャーウッドさんが飼育していた馬のルパートをスケッチしてお小遣いをもらっていました。
ウォルトのおじさんのマイケル・マーティンが鉄道の運転士をしていたこともあり、家のそばを通っていた鉄道を眺めるのが好きでした。
マイケルおじさんが運転する列車を音だけで当てる遊びに夢中になっていたようです。
いかにも幼い男の子がやりそうな遊びで、このエピソードには親近感が湧きました🤗
これらの写真の街並みはマーセリンの大通りです。パークには、ここ、マーセリンの街並みを再現した「メインストリートUSA」があります。
家族と一緒に暮らした楽しかった思い出と、古き良きアメリカをゲストにも体験して欲しかったのでしょうね。
マジックキングダムのクリスマス時期の「メインストリートUSA」👇
ミズーリ州カンザスシティへ
1911年7月 病気から回復したイライアスはカンザスシティにあった新聞社の配達ルートを購入します。18歳になっていたロイと、10歳のウォルトは朝と夕方の2回、新聞を配達していました。
朝刊は「カンザスシティ・タイムズ」を午前4時から、約700世帯に。
夕刊は「カンザスシティ・スター」を放課後、約600世帯に。
新聞の休刊日以外は毎日配達していました。
新聞を配るついでに、マーセリンの酪農所から顧客に卵とバターの配達もしていたそうです。
もちろん小学校(「ベントン・グラマー・スクール」)にも通っていました。
子どものウォルトにはきつい仕事だったでしょう。
疲れ果てて授業中に眠ってしまうこともあったそうです。
とある雪が降った日の夕刊配達時には、あまりの眠たさで雪の上で眠りに落ちてしまい
ロイがウォルトを目覚めさせて、ウォルトの分まで配達したとの逸話も残っています。
この頃から弟想いのロイだったのですね。
赤丸が当時の「ベントン・グラマー・スクール」で、水色の囲みが新聞配達のルート👇
ベントン・グラマー・スクール
1911年9月~1917年6月、ウォルトと妹のルースが通っていた小学校の「ベントン・グラマー・スクール」。
この頃の、母フローラと妹ルースとの貴重な写真ですね。
ウォルトが31歳の、1931年2月6日に元校長から
「 ”ベントン年鑑” なる物を作りたいので、偉大なる卒業生のあなたに協力をして欲しいのです。」と手紙を受け取ります。
ウォルトは、この要望にすぐ答えます。
ミッキーマウスのイラストと、「ベントン・グラマー・スクール」を卒業してから体験した出来事を書いた手紙を出しました。
11年後の1942年に、元教師のデイジー・ベックさんからの招待で「ベントン・グラマー・スクール」を訪れました。
そこで旧友と再会し、子供の頃の思い出に浸りました。
体育館では、ウォルトを称える壁画の除幕式にも参加しました。
残念ながら、2008年頃に「ベントン・グラマー・スクール」は廃校となり、今は介護施設になっています。
1931年、ウォルトが「ベントン・グラマー・スクール」の2年生の時の担任だった、エセル・フィッシャーさんに送ったクリスマスカードです👇
引用元 https://www.findingwalt.com/walt-disneys-birthplace/
引用元 https://yesterland.com/waltchicago.html
引用元 https://www.o-zell.com/the-o-zell-story
引用元 http://vintagedisneymemorabilia.blogspot.com/
感想
私は知らなかったのですが、東京ディズニーランドホテルには「マーセリンサロン」があるのですね。
想い出の地から付けられた素敵な名前がいいですね。
記事は長くなるので、次回へ続きます。
幼少期のウォルトの暮らしぶりが垣間見られました。
時代背景もあったでしょうが、子どもながらに大変苦労していたのですね。
当時、やや都会だったシカゴから田舎のミズーリ州マーセリンでの暮らしが、多大なる影響を与えていたのも分かりました。
何気なく何度も歩いたパーク内の「メインストリートUSA」が、次回訪れるときは違った目線で歩けると思います。
事業家として成功してからも、いろいろな思い出の地を、自分の足跡を、ちゃんと辿っているのが素晴らしいです。
自分自身の出発点を再確認し、これからの人生に生かす行動を体現された方だったのだなと思いました。
「アメリカ編③」へ続きます👇