ディズニー家の歴史 その5 アメリカ編③

American Flag ウォルトディズニー
Cristian Ramírez American Flag
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シカゴへ再び

アメリカ編②」の続きです。

1912年、父のイライアスは、シカゴのゼリーとジュースの工場「O-Zell Soda Company」の株式を取得します。
カンザスの新聞のルートを購入した直後くらいの時期でした。

O-Zell Soda Companyとディズニー家の関わり

「O-Zell Soda Company」とディズニー家の関わりについて

・1911年 弁護士だったスクロジン氏は天然フルーツ炭酸水を製造・販売するために設立したベンチャー企業「O-Zell Soda Company」の社長に就任します。

・禁酒法の支持者だったスクロジン氏は、同じ志を持った禁酒家のイライアスに声をかけて、株式の購入を持ちかけます。

・スクロジン氏に賛同したイライアスは2000株を購入。同じく妻のフローラも100株を購入します。
・1915年追加で3700株を購入。ロイとウォルトの名義の株もあったそうです。

・なかなか会社は波に乗れず、業績不振の状態が続きます。起死回生を狙って「Jellies, Jams and Preserve」を製造し1917年に販売。

・1917年3月に、スクロジン氏はイライアスに手紙を書きます。
「シカゴに戻ってきて欲しい」と。

・その手紙を受け取り、カンザスシティの新聞ルートを売却し、イライアスとフローラと長女ルースの3人はシカゴへ戻ります。そして、イライアスは管理職に就任します。

・一方、ウォルトはシカゴへは行かず、カンザスシティに半年間留まります。

・1917年9月に、ウォルトはシカゴの家族の所へ行き、高校と夜間の美術学校に通いながら「O-Zell Soda Company」の工場でジュースの瓶の洗浄・リンゴの皮むき・ジュースのボトリングなどをし、お金を稼ぎました。

・1920年にとうとう会社は倒産します。スクロジン氏は横領の罪で?刑務所へ。ディズニー家が購入した株式はただの紙切れとなりました。

ドラマのような怒濤の展開ですね。
家族総出で、結構な金額の株を取得するも、紙切れになってしまうとは。
天然フルーツ炭酸水が売れなかった理由は何でしょうかね。
当時の値段がわかりませんが、金額設定が高かったのでしょうか。

倒産から94年の時を経て、2014年5月にシカゴのウォルトの生家を購入したダイナ・ベナドンさんとブレント・ヤングさんがなんと会社を復活させました!
今でも、当時と同じように天然素材100%を使用した炭酸飲料水がメインです。
甘みはハワイ産のサトウキビを使用しています。
1本3ドルで販売中。

昔と違う点は、シカゴではなくカリフォルニア州シルバーレイクでボトリングされています。
また、オリジナルTシャツ(各19.99ドル)も販売しています。
全収益金は、シカゴのウォルトの生家の修復と保存費用に当てられています。

家族のその後

ウォルトと第一次世界大戦

ウォルトは1918年始めに第一次世界大戦の軍に入隊します。
1918年11月11日、第一次世界大戦は休戦。
1918年12月4日にフランスへ向けて出発します。
※このときに偶然「ベントン・グラマー・スクール」の同級生に再会しています。
1919年9月22日にアメリカへ向けて帰国。

ウォルトが米軍の一員となったいきさつはこちらの記事に書いてあります👇

父イライアスのその後

1920年に「O-Zell Soda Company」が倒産したため、再びカンザスシティへ。
そこで大工として働きます。
1921年の秋、オレゴン州のポートランドへ。
そこは、長男のハーバード(当時32歳)が住んでいました。
1930年代後半に、事業が成功したロイとウォルトからロサンゼルスの家をプレゼントされます。
1938年11月に家のガスが漏れて、最愛の妻フローラを亡くします。50歳でした。
その2年10ヶ月後の1941年9月にイライアスは82歳の生涯を閉じました。

彼は、リタイアするまで様々な職に就きますが、どれも病気や不運が重なりうまくいきませんでした。
また、家族に対してかなり厳格な態度で接していたそうです。
ウォルトは南米に出張中だったため、父イライアスの葬儀には参列しませんでした。

しかし、晩年にウォルト、イライアス、ロイの3人で笑っている写真がありました。
イライアスの誕生日を祝っていますね。
ピノキオが好きだったのでしょうか。
親子間の様々な葛藤はあったものの、こうして笑っている写真を見ると、赤の他人ですが、よかったなと思えてきます。

「イライアス・ディズニーは161年前のこの日に産まれました。
大工、請負業者、農家、バイオリン弾き、など生涯を通じてたくさんのキャリアを経験し、
その経験から得られた価値観を子ども達に教え込みました。」(ざっくり日本語訳)👇

「バイオリン弾き」のワードには驚きました。
調べてみると、ウィキペディアにも
「彼はバイオリン弾きで、楽器を弾ける人なら誰でも家に連れてきました。」
と、書いてあります。

 He was a fiddler and would bring home anyone else who could play an instrument.

出典: Wikipedia 『Elias Disney』より

ツイッターを探していたら「ウォルト・ディズニー・ファミリー・ミュージアム」の展示写真がありました。

「バイオリン」はイタリア語
フィドル」は英語
細かい違いはあるようですが、基本的には見た目など同じ構造の楽器です。

「フィドル」を愛用したのはアイルランドが関係しています。
イライアスの両親がアイルランド生まれなので、アイルランド音楽で多用されていた「フィドル」をこのんで奏でていたのでしょう。


アイリッシュ・フィドル – 西方より来たる男 (Irish Fiddle: Man from the West)

弟想いの兄ロイについて

1893年6月24日 シカゴ生まれ。
本名は、ロイ・オリバー・ディズニー Roy Oliver Disney

・兄のレイモンドと共に、ミズーリ州カンザスシティの銀行の出納係として働く。

・1917年 第一次世界大戦の際にアメリカ海軍に志願。
・1919年 結核にかかり除隊。ロサンゼルスの退役軍人病院で治療を受ける。

海軍服が似合っていますね👇



・1923年10月 ロサンゼルスのシルバーレイクの小さなガレージで、ウォルトと
「ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ(Disney Brothers Cartoon Studio)」を設立。
ロイがカメラを回し、ウォルトがアニメーションを担当。


・1924年 ハリウッドのキングスウェルアベニューの不動産事務所を半分間借りしたスタジオに移転。資金のめどが立ち、すぐに隣の一軒家に移転。

・1925年4月 スタジオで仕事を手伝っていた、エドナ・フランシスと結婚。

・1926年 シルバーレイクのハイペリオンアベニューにスタジオを建設。
「ウォルト・ディズニー・スタジオ(Walt Disney Studios)」に改名。 CEOを務める。(~1971年)

・1930年 息子のロイ・エドワード・ディズニー誕生。

・1940年 「ウォルト・ディズニー・プロダクション(Walt Disney Productions)」に改名。
・1945年 社長を務める。(~1966年)
・1955年7月 ディズニーランド開園。
・1964年 代表取締役会長を務める。(~1971年)

・1966年 ウォルトが亡くなる。WDWの建設と資金調達を引継ぎ、監督する。
・1969年 教育子会社を設立。教育用映画や素材の研究を開始。
・1971年10月 ウォルト・ディズニー・ワールド開園。
・1971年12月 脳梗塞により78歳で人生の幕を閉じる。

Roy O. Disney
Steven Miller Roy O. Disney A Roy O. Disney stand up at One Man’s Dream at Disney’s Hollywood Studios.

マジックキングダムにあるロイとミニーのベンチ👇

Roy O Disney

ウォルトと二人三脚で、世界に通用するアニメーションを1から作り出したことは言うまでもないでしょう。ウォルトの才能はもちろん素晴らしいですが、ロイの存在も大きかったと思います。
カンザスシティで銀行員として働いた経験を生かし、ウォルトが苦手だったお金に関すること全てを請け負っていました。
幼い頃、新聞配達の仕事をしてきたときから、ふたりはすでにビジネスパートナーだったのでしょうね。
大成功を収めた後も、あくまでも主役はウォルトであり、ロイは表立つことを避けていました。
会社の戦略のひとつでしょうが、影ながらウォルトを見守る姿勢を最後まで続けていました。

だからこそ、ウォルトが亡くなった後の、「ロイによるWDWでの開園宣言」は兄弟愛を超えたストーリーを感じます。

開園から二ヶ月後に、お孫さんとWDWに遊びに行こうとしたその日に、寝室で倒れているのを発見されます。ウォルトが亡くなった同じ病院のバーバンクのセントジョセフ病院に運ばれ、脳出血で亡くなりました。クリスマスの5日前でした。

苦労して2人が作り上げた「夢の国」の世界観が永遠に続くことを願っています。

ロイの感動的な開園宣言の記事はこちら👇

さいごに

ディズニー家の祖先と家族と歴史的背景について「フランス編」「イングランド編」「アイルランド編」「カナダ編」「アメリカ編①」「アメリカ編②」、そしてこの「アメリカ編③」とつづってきました。
戦いなどを経て、国を移動しそれぞれの時代でたくさんの苦労を、所詮、表面上でしかわかりませんが垣間見れたことが収穫でした。
歴史の勉強にもなりました。「ノルマンコンクエスト」とドラマなどや記事を目にすると、今までは全く興味がなかった分野なのに飛びついてしまいます。
構想から記事をすべて書き終わるまで半年かかりました。
でも、まだウォルト自身の歴史は書けていません。
記事が書けたら公開したいと思っています。


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